編集部ブログ

2020.05.12

森上逍遥先生最新刊『タオと宇宙原理』第1章その2

森上逍遥先生の最新刊『タオと宇宙原理』より、第一章「意識と科学 量子仮説」の続きをご紹介します。

第一章  意識と科学 量子仮説

神の再構築

◆意識とは何か(続き)

 ギリシャ哲学に代表される西洋哲学においても、哲学のスタートは「神」の理解であった。当時の知的人物らが、庶民が考えつくこともない理屈を考え、神の存在の有無を論じ、より優れた者は自然哲学を学ぶ者となった。ピタゴラスに代表される偉大な哲学者は、現代人の大半が理解できない数学(数式)の道を切り開き、同時に自然と人間の意識とを神の創造物として分析した。西洋知識人の多くがいまだにプラトンをはじめ、この古代の哲学者たちへの敬意を忘れない。この欧米人と同じ感性を日本人の多くが疾に失ってしまっている。

 ユダヤにおいても、5000年も昔からの歴史を重んじ、そこに現れる信仰厚い偉人達に敬意を払っている。偉大な哲学の歴史を持つインドにおいても同様である。中国の聖人たちは、いまも我々の精神の支柱として君臨している。にも拘らず、近年の唯物論者の急増には残念ながら抗しきれない。

 日本では、大東亜戦争(第二次世界大戦)の敗戦を機にそれまでの家族制度が崩壊して核家族化が浸透し、更なる民族否定の義務教育が追い打ちを掛ける中で、唯物主義も同時並行的に社会主義者の教師たちにより敷衍される事となった。その結果は、以前はどの家も鍵を閉めなくても安全だった日本社会が、いまや鍵を閉めても破壊され、道行く人が暴行されるのが普通の社会となり下がった。それでも欧米他の先進国の中で一番安全であることに変わりはないことがまた驚かされることではある。

 しかし、いまや一般庶民に到るまでもが神棚や仏壇に手を合わすことを忘れ、その習慣を失ってしまった。更には、宗教観への偏見を抱くようになり、何の思考もなすことなく「神なんか居るわけないだろ! ばぁか!」といった短絡へと陥ったのである。考え尽くした末に神はいないと結論付けたのならそれはそれで結構なのだが、一度たりとも思考することなく「ばぁか!」では余りに知性が欠落しているとしか言えない。それは一度も思考することなく「わたし神様信じてる!」という女の子の無知とどこも変わらない。

 神は何故存在しないのかを徹底的に思考しなくてはならない。そして何故居ると感じるのか更なる思考が求められるのである。そもそも「神」とは一体何者なのか! 一度きちんと思考する必要がある。「神」は民族や国家や地域や宗教によってその概念にかなりの違いがある。そして、それらの全てがニセ物かも知れないのだ。

 21世紀初頭に人類は改めて「神」の再構築をしなくてはならないのだと私は感じている。

 人類が集団を形成するようになって以降、人々は恐怖心を背景として「神」なる神秘力を恐れまた期待するようになった。それは、一人の霊感者の出現によって始まり、その強い呪師の意志が人々を束ね、勇気を与え、集団に平安を与えてきた。時に人供という恐ろしい風習までもを作り出し、犠牲という形式を用いて自分たちの行為の純粋性を示して怒る神の許しを得ようとしたのである。この様に神とは怖い存在であった。呪師の強い精神は更に人々の心を捉え、心正しく生きることを強調し、そうでない者に罰が与えられることを説いた。そこには、その呪師の知的能力の差により集団の文明的進化に大きな隔たりを作り出していくことになる。優れた呪師が出現した所には、それまでの怖い神が同時に慈愛の神として語られるようになり、それは遂に宗教としての形を成すところまで発展する。そこからは、より哲学的側面としての教義が形成され、他教との競合の後、勝ち残った集団、教えが現代まで続いている。

 それらの代表が現代においてはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、儒教である。それらに共通することは、普遍的善悪が語られていることであり、それらを統べる絶対者の存在である。厳密には仏教だけは異なるが、大衆仏教においてはこの範疇に入る。つまりは、そこには絶対者としての神が存在するのである。





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