兵隊さんのために一生懸命食事を作る母
終戦一年くらい前のことですが、日本の兵隊さんを載せた三隻の軍艦が、高雄の港の沖で敵の魚雷に当たって沈められました。軍艦は高雄を出てマニラに向かう途中でした。
乗っていたのは陸軍の兵隊さんたちで、関東軍という話でした。当時、戦局の悪化に伴って、本来は満州(現在の中国東北部)防衛のための関東軍の一部を、南部の方が危ないということで回そうとしたらしいのです。
ところが、船が高雄の港を出てすぐに魚雷に遭い沈められてしまったのです。
沈められた船に乗っていた兵隊さんたちの多くは、高雄港まで泳ぎ着いたそうで、生き残った兵隊が集められて混成部隊を組織したそうです。 泳ぎ着いた兵隊さんが、岸に上がってヘトヘトでお腹を空かせていたところへ、たまたま私の従兄弟が通りかかりました。その兵隊さんたちに「どこかに食べるものありませんか?」と聞かれた従兄弟は、「あるある。僕の叔母の所に行ったらいくらでも食べるものがある」と言って、真夜中に五、六人の兵隊さんを連れて来たことがありました。
私の母は、自分の子供のような年齢の兵隊さんたちを見ると、我が子のように思えてしょうがないらしく、母性愛をフルに発揮して、夜中じゅう何か作って、皆に食べさせていました。
病院を経営していた別の従兄弟は、奮起湖へ疎開するためしばらく病院を空けてしまうことになったので、そこに混成部隊の衛生隊を住まわせることにしました。その衛生兵たちがうちに「こんにちは」と訪ねて来ると、お腹が空いている証拠なのです。
また、大社には大社国民学校というのがありましたが、その頃にはもうほとんど休校状態になっており、校舎に兵隊さんたちが住んでいました。 兵隊さんたちは、いくつかのグループになって代わる代わるやって来ました。一つのグループが食べて帰ったら別のグループが来るという具合で、うちの練炭の上はいつでも忙しかったのを憶えています。
母は兵隊さんたちのためにおやつを用意したり、おじやとかご飯とかをいくらでも食べられるように大きな鍋で作っておくのです。それで、皆食べてはお腹をさすりながら帰って行きました。そんな母を、私は偉いと思いました。
兵隊さんは、疎開先の田舎では日本語が通じない人もいるので、自然とうちに足が向いたのではないでしょうか。うちには、ぺちゃくちゃ喋る私たちもいるし、真剣に話を聞いてくれる私の父もいるし、一生懸命おやつを作って食べさせてくれる私の母もいるし、兵隊さんたちにとってはきっと楽しかったのでしょう。
私の母は、昔から世話好きで、一歩家に入った人をお腹を空かしたまま帰らせることはありませんでした。兵隊さんたちに向かって「来ては駄目」と言ったことは一度もありませんでした。明日もおいで、明日もおいでと言っていました。だから、一度来た兵隊さんは、二度も三度も来たものでした。