はじめに
私は大正十一年東京で生まれ、十二年の関東大震災の翌年、一家に従って台湾に引き上げてきました。当然その時の思い出はありません。その後、八十四歳の今日まで、台湾で過ごしてきました。私の祖国は勿論台湾ですが、私の母国は二十四歳まで育ててくれ、大学教育まで施してくれた日本です。私が日本に対して抱いている感情は、親日とか愛日だけでは言い表せない一種の親しみで、言わば母親に対する気持ちにも似ています。
青壮年期を国民党支配下の台湾で過ごしたことは、台湾人にとっては不幸でした。五十年間の人権を無視された生活は、全世界の他の国には全く見られないものでした。現在ではやっと民主国家らしく成りつつあるのはご存知の通りです。そして今、過去のことを顧みるのは、将来に対する希望を持つ基礎にもなります。
私の小学校から大学までの教育は日本教育でした。昭和三年に台北の南門小学校に入学して、昭和二十年、大学卒業までの十七年間は、平和から戦争に突入した激動の時期でした。昭和九年に台北第一中学に合格し、昭和十四年卒業、台北高校に入学しました。段々戦時色も濃くなり、何かと不自由になりましたが、高校(旧制)生活ではまだ青春を謳歌することが出来ました。スパルタ教育の中学から自由殿堂の高校に進学して、大人になったと感じました。台北高校の「自由の鐘」の音は今でも耳に鮮やかに残っています。
やがて日本は大東亜戦争(太平洋戦争)に突入し、私の大学時代は戦時体制も厳しくなり、短縮授業で半年縮められ昭和二十年四月に海軍軍医を志願させられて八月の終戦を迎えるまで、高雄海軍病院に勤務していました。
日本教育は私にとっては、プラスの面が大部分ですが、マイナスの面もあります。今でも日本語を話し、日本文を読み書きするのは北京語を使うことよりも慣れています。母親の日本は、日本語以外は不得意な台湾人の私を育てあげました。現在八十歳前後の台湾日本語族はまだ残っています。やがて消滅するとは思いますが、我々にとっては残念なことです。異民族とは言え台湾と日本の架け橋となるのは、これらの人々です。台湾で生まれ青年時代を台湾で過ごされた日本人は、祖国は日本で台湾は母国だと思っている者も居ます。これらの人々も日本と台湾の架け橋となるでしょう。惜しいことには皆八十歳前後の高齢者です。
お互いに年のことは考えずに、命の続く限り頑張りましょう。
二〇〇五年七月五日
柯 徳三