アメリカのスパイ

戦時中、アメリカやイギリスに関しては、限られた情報しか知らされていませんでした。最初の頃は英語の授業もありましたが、特に戦争の終わりの頃は「鬼畜米英」で、英語の教育さえやめてしまいました。

台北一中と高等学校の高等科を掛け持ちしていた英会話の先生で、私も何年間も教えてもらったジョージ・H・カールという先生がいました。この先生は、毎週月曜日、自分が指名した台湾人の生徒を自宅に集めて、英会話の練習をしていました。その中に日本内地人はいませんでした。

英会話というのは名目で、実はスパイ行為だと言われましたが、今から考えてみると確かにスパイだったのかもしれません。

というのは、「今日、出征軍人の見送りをやったのか」とか、そういった質問を英語でするのです。それに対して、私達は英語で答えます。英会話の練習にかこつけて色々な情報を私達から聞き出していたわけです。

結局、その先生は台北一中の教練の先生に「お前はスパイだ」と言われて殴られて、戦争突入前にアメリカに引き揚げていきました。

戦争が始まり、アメリカ軍が台北を爆撃した際、B29が爆撃したところは、実は、全て内地人の居住区でした。台湾人の居住区には一発も落ちなかったのです。これは、あのカール先生が情報を提供したためでした。しかし、台北一中には弾が二発落ちました。私が思うに、それはカール先生が一中の教官に殴られた恨みがあったからではないでしょうか。

これには後日談があります。終戦後、国民党政府が来た時に、カール先生は台北駐在のアメリカ副領事として再び台湾にやって来ました。というのは、台湾についての情報は、この先生が一番良く知っていたからです。蒋介石に建言したのはカール先生なのです。

しかし、今度は国民党に楯突いた台湾人を何人も救い出してアメリカに逃がしたために、とうとう最後は「歓迎されざるアメリカ人」と言われて蒋介石に追っ払われて、またアメリカに帰っていきました。


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