清朝から日本時代へ

祖父・柯秋潔は、台湾で最初の日本語教育の発祥の地として有名な芝山巌学堂の第一期生です。清朝から日本時代への移り変わりの混乱期に、率先して、いの一番に日本語を学んだのですから、本当に進取の気象に富んだ人間でした。中華民国から言わせれば、反漢、漢奸第一号になるかもしれません。

祖父は、明治五(一八七二)年に台北州内の士林街で生まれました。家系図によると、大陸の福建省*州府竜渓県から渡台した五代目の直系になります。

昭和十二(一九三七)年に台湾新民報社から出た『台湾人士鑑』は、祖父のことを次のように紹介しています。

「柯秋潔
教育方面の功勞者として名譽嘖々たる君は明治五年十一月二十一日を以って生る。幼少より士林街習靜齎書塾に於いて漢學を修め、その君の天才的頭腦は忽ち現れて數年にして四書、五經、古文詩賦等を卒へた程で、其の明敏なる頭腦の一端を知る事が出来やう。後士林に於いて書房を設けて育英事業に携はりしが感ずる所あって更に当時の電報學堂に入りて學ぶ。修業後臺北水陸電報總局司報生(技手)として奉職し、同二十八年七月學務部臨時雇に命ぜられたのが動機となって教育界に入る。

爾来國語學校、公學校の教員として一意専心育英事業に携り、其の成績頗る良好にして名聲頓に昴る。他方君は社會公共的事業の思念に篤く貧民の救恤寄附其の他等に多大な金額を投じて吝まず、其の美學は人を動かすに足る、なれば幾多の公職に擧げられ枚擧に遑がない程である。後實業界方面にも手を出して曾て林伯壽君の支配人として其の明快な腕を揮はれた事もなる。今では老齢の故を以って引退されてはゐるが、過去に於ける君が社會公共の爲めに盡した功績は永久に朽ちないであらう」

幼い頃に通った、士林の「習静斉書塾」や「浄浴斉」というのは私塾で、何炳奎先生という人に師事していました。

十六歳の時、郷試(中国の官吏登用試験の第一次試験)で秀才(官吏の位の一つ)の国家試験を受けましたが、通らず、もう一回試験を受けるつもりでいたところに日本政府が来たわけです。すなわち、明治二十八(一八九五)年、日本の明治政府が甲午戦争(日清戦争のこと)で勝利し、台湾を領有したのです。

当時、祖父は英語や電信技術を習い、台北の電報局に勤めていました。電報局の技師で、英文電報をやっていましたから、英語は堪能、と言うか、まあ日本語よりは話せたでしょう。また、十八歳の時から、自分で設立した私塾で児童に漢学を教えていました。日本が来る前、台湾に学校はありませんでしたから、まさに寺子屋のようなものでした。

黄文雄先生の「拓殖大学の台湾語講座と台湾の言語事情」(『外国語・地域研究の系譜・拓殖大学百年の学統〈2〉・』拓殖大学)によれば、清時代にも書房や義塾、社学といった学童の教育機関がありましたが、その教育目的は科挙にあって、しかも就学率はきわめて低かったようです。それには、

「清国時代の書房の普及率については統計がないが、日本領台二年後の明治三十(一八九七)年に行われた台湾総督府の調査では、当時の書房数は千百二十七箇所、生徒数は一万七千六十六人であり、入学年齢は七歳からが一般的である。

この統計数字から単純に計算すると、一校の生徒は平均約十四・五人で、近代国民学校の教室に比べると規模はそれほど大きくなかった。当時の台湾総人口は約三百万人であったため、書房で学ぶ者の割合はわずか〇・五七%に過ぎず、義塾や社学を入れても一%にも満たない」とあり、また、その後の日本統治時代の就学率の変化については次のように書かれています。

「公学校令施行の翌明治三十二(一八九九)年の公学校(台湾人の初等学校)への就学率は二・〇四%であった。それは中国大陸に比べ、ほぼ同数に近い。しかし大正元(一九一二)年は六・六%になり、昭和元(一九二六)年は二八・四二%、義務教育制の施行によって昭和十八年は六五・七六%、昭和十九年は七一・一七%と飛躍的に向上している。これは当時のアジアにおいて日本に次ぐ数値である。台湾は日本の植民地だったとされているが、世界で現地住民の就学率がこれほどまでに高かった植民地が当時存在しただろうか。むしろこの点からだけでも、日本の内地延長政策の下、台湾が植民地ではなかったということが証明できるはずである。昭和二十三年に学齢児童全員に義務教育実現を予定していたが、日本の敗戦によって実現するには至らなかった」

コラム1 内台一体だった日本教育


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