コラム5 日本統治前後の台湾の教育
清統治時代の台湾の教育施設は「書房」と呼ばれ、寺廟などに子弟を集めて漢文の読み書きや習字などを教える、日本でいう寺子屋のようなものだった。
就学年限は決まっておらず、経済的に余裕がある子弟は比較的長く就学出来た。三年から、中には十年間も学ぶ者がおり、また、科挙(官吏登用試験)の受験勉強も行われた。官制の学校もあったが、これらの普及率は、日本統治二年目当時の総人口に対して一%にも満たなかった。
日本統治が始まって最初に行われた教育は、芝山巌に代表されるような国語伝習所での日本語教育である。それまで同じ台湾の中でもびん南語、福建語、客家語など様々な言語が存在し意思の疎通がままならなかったものが、日本語の普及によって意思の伝達が可能となった。同様に、部族ごとに言葉が違った高砂族の間でも意思疎通が出来るようになった。
明治三十一(一八九八)年には「公学校令」が出され、国語伝習所に代わるものとして五百十五の公学校が設立された。
最初、台湾人は通い慣れた書房に固執し公学校にはなかなか生徒が集まらなかったが、総督府は書房教育を禁止することなく、公学校に通う生徒に食費と小遣い銭を与えるなどして生徒を増やす努力をした結果、明治三十七(一九〇四)年になってようやく公学校の生徒数が書房のそれを上回った。
大正八(一九一九)年に「台湾教育令」が発令され、大正十一(一九二一)年には台湾教育令が改正されて、日本人と台湾人の共学が可能になった。初等教育だけは、国語を常用とする者は「小学校」、常用としない者は「公学校」と区別されていた。
その後は順調に生徒数も増え、昭和八年には「台湾教育令」によって公学校を卒業した者を対象とした高等普通学校、女子高等普通学校、師範学校などが設けられ、台湾人にも専門教育への道が開かれた。更に昭和十六年、台湾教育令の更なる改正によって小学校と公学校の区別は取り払われ、全てが国民学校に統一されることとなった。
明治三十二(一八九九)年に僅か約二%だった児童の就学率は、敗戦直前の昭和十九年には、驚くべきことに九二・五%にも達している。