コラム3 鄭成功
日本統治開始以前の十七世紀、中国大陸では漢民族の国家である明王朝が衰亡し始め、代わって満州族の国である「清」が台頭してきた。清との争いで追い詰められた明王朝は、当時東アジアの海で力を持っていた鄭芝竜に援助を求めてきた。
この鄭芝竜と日本人・田川マツとの間に長男として生まれたのが、日本では近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」で有名な鄭成功(日本名=福松)である。彼は七歳までは長崎の平戸で育っている。
鄭成功が「国姓爺」と呼ばれたのは、彼が二十一歳の時に拝謁した明の皇帝・隆武帝より皇帝の姓であった朱、つまり国の姓を賜ったからである。もっとも鄭成功はこれを畏れ多いとして自らは朱を名乗らなかったという。
明軍は鄭芝竜の力を借りても清軍に勝てず、鄭芝竜は明軍の不利を悟り清軍に寝返ったものの信用されず殺された。妻のマツは清軍兵士からの陵辱を受けまいとして自ら命を絶ったという。
元々儒者を目指していた鄭成功だったが、この報せを聞いて孔子廟で儒服を破り捨て、武力による「滅清復明」を誓ったのであった。
鄭成功は清軍に抵抗したが、力及ばず大陸を後にすることとなった。彼が大陸反抗の拠点とすべく逃げて来たのが、当時オランダが支配していた台湾であった。オランダの圧政に苦しんでいた台湾住民の協力もあり、鄭成功はオランダを蹴散らし、オランダ人の築いたプロビンシャ城を「承天府」と呼び台南を中心に統治を行なった。
しかし、鄭成功は一年もせずに「滅清復明」の夢を果たすことなく病死。当時の台湾にはマラリアをはじめ伝染病が蔓延しており、鄭成功と共に渡台した人々の多くが伝染病により命を落としたといわれる。
鄭氏政権は三代続いたが、内紛につけ込んで攻め入って来た清軍に滅ぼされ、僅か二十三年で終焉を迎えたのであった。鄭成功の死を悼んで住民たちは台南に廟を建てたが、清にとって賊であった鄭成功を表立てては祀れず、「開山王廟」と称した。日本時代は開山神社と呼ばれ、現在は延平郡王祠と呼ばれ多くの観光客で賑わっている。