名も告げずに去っていった将校さん

何が起きたのでしょうか。

遠くで大勢の人のざわめきがし、段々と近くなってきました。誰かが私の頬を叩いています。手をさすったり叩いたりする人がいます。遠くかすかに「こらこら、目を覚まして! そのまま寝ちゃいけないよ」と言う声が聞こえるのですが、まぶたが重くて目が開きませんでした。

「気の毒にね、いたいけな子供が。顔が真っ青だよ」  「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな」

周りの会話が少しずつはっきりして来ました。

その軍人さん? あの将校さんが私を助けて下さったのだろうか。危険だからやめるようにと言っても言うことをきかなかった私を、ずっと心配して声をかけ続けてくれたあの将校さんが。考えようとしても、頭がぼんやりしています。

誰かが私のまぶたをつまみました。「おかしい、変だ」と思うのですが、体がいうことを聞きません。確か立っていたはずの私は横になっていることは分かりました。なぜだか分かりませんが、急に悲しくなってきて、泣き始めてしまいました。 「ああよかった、涙が出てくるくらいならもう大丈夫だ」という誰か男の人の太い声を耳にしたら、再び全てが遠のいていきました。

どのくらい経ったのでしょうか。体を揺さぶられ「目を覚まして、もうすぐ台南に着くよ」という声に驚いて、「えっ、台南!」と辺りを見回しました。私は知らないおばさんに抱かれてずっと眠り続けていたのでした。

「あぁ、よかった。息を吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ」と、そのおばさんはニコニコしながら、私のオカッパの頭をなでてくれました。 「これ、あなたの切符、何処に行くのか分からなかったんでね、ポケットを探ったら切符があったので見せてもらったのよ。はい、しっかり持っているんだよ」と、切符を上着の

ポケットに入れてくれました。

汽車は段々速度を落として、見覚えのあるプラットホームへ静かに滑り込んで行きました。

「たいなーん、たいなーん」

聞き慣れたアナウンスの声が聞こえ、汽車は止まりました。台南に着くまでひざを貸してくれたおばさんや周りの人に「ありがとう」とお礼を言うと、おばさんは「気をつけてね」と言って、私を抱いて窓から外に出してくれました。

すると、窓の外にはあの将校さんが待っていて、私を抱き降ろしてくれたのです。

そして、「ほんとに大丈夫ですか?」とニコニコして言いました。

「はい、もう大丈夫です。助けていただいてありがとうございました」
「しかし、ほんとに危なかったなあ、でもよかった。けれど一人で大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。あのう・・・」
「え?」
「お名前を教えていただけますか?」

すると何がおかしいのか、将校さんはプッと吹き出し「ハハハ、子供のくせに。いいから気をつけて帰りなさい」と言い、大分空いてきた車両に乗り込みました。そして窓から顔を出して、「気をつけて帰るんだよ!」と言って、将校さんは私に手を振りました。爽やかな笑顔でした。

列車がゆっくりと動き出しました。黒い煙を吐きながら、ポッポーと汽笛を鳴らし、列車は速度を増してホームから離れて行きました。

将校さんの振る手が遠く遠くなっていきます。長い汽車の列が段々と縮んで線となり、更に線から点になった汽車が遠く遠くかすんで見えなくなるまで、私は、その場に立ちすくんでいました。

将校さんへの感謝を繰り返し、武運長久を祈りながら。

あの轟音と共に激しく揺れ動く汽車のステップで、自分の体を支え、大事な風呂敷包みを守るだけでも大変なことです。下手をすれば自分も落ちてしまうかもしれないのに、それを顧みず気を失って落ちていく私を咄嗟に掴み、引っ張り上げて下さった将校さん。なのに私は、充分なお礼も言えないままでした。やはり、名前だけでも聞かせてもらえばよかったと、後でどれほど悔やんだか知れません。

生きている間に、もう一度お会いしてお礼を言いたい・・・。

それは、私のこの五十年以上変わらぬ願いです。この本を手にとって下さるようなご縁があれば…と望んでやみません。

紫色の風呂敷包みを持っていた将校さん、
今どこにいらっしゃいますか?
どうかこの言葉が届きますように! 私はいつも台湾から
「ありがとうございました」と心に念じております!


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