大東亜戦争末期の台南
大東亜戦争、いわゆる太平洋戦争の末期、ここ台湾でも空襲がひどくなり、私は生まれ故郷の台南を離れ、家族と共に大社村(台南から汽車で南へ四駅の路竹駅近く)という母方の祖母の田舎に移り住んでいました。昭和二十年の春、私は台南第一高等女学校(四年制の旧制中学)の入学試験を受けるために、疎開先から台南に戻らなければなりませんでした。その運命の日を、私は今まで片時も忘れたことはありません。
大社村から台南市に行くには、当時は台湾の南北をつなぐ縦貫鉄道か、または局営のバスを利用するのが普通でした。戦時中はいつ何時、警報が鳴り、空襲が始まるのか全く予測が出来ず、汽車もバスも定刻通りに到着、発車が出来ないことがよくありましたが、それについて皆愚痴をこぼすこともありませんでした。
台湾の南北に広がる西部平原の当時の風景といえば、畑に続く畑や、地平線に届かんばかりに広がる田んぼ、その中に、農家がぽつんぽつんと点在しているというものでした。
その平原の中央を縦貫道路という一本の大きな道が、平原を東西に切り分けるように走り、台湾の南端の都市、高雄市から州と州(現在の県)、都市と都市、町と町を数珠をつなぐ糸のようにつなぎ合わせて、北端の基隆市に伸びていました。そして、その道を局営バスが北から南、南から北へと走り、人々を運んでいたのです。
かつては田舎の乗り物といえば、人の力を借りる「かご」か、暑い日射しの中を砂ぼこりにまみれながらのろのろと牛に引かれて進む「牛車」と決まっていましたが、この縦貫鉄道や縦貫道路のバスがそれに代わるようになり、やがて、生活に欠くことの出来ない交通機関として一般庶民に親しまれるようになりました。
私は戦争の始まる前に初めて、祖母と一緒にこの局営バスに乗りました。汽車よりはるかに遅く、揺れも激しかったことをよく覚えています。特に、でこぼこ道になると、車が跳ねる度に私は木製の椅子から飛び上がり、そしてドスンと椅子に落ちるのでした。ですからでこぼこ道にさしかかると、「さあ大変」と、テレビで見た西部劇の暴れ馬の調教師みたいな格好で、しっかりと両手で前の椅子を掴んで、跳ね落とされないよう気を付けなければなりませんでした。
私たちの向かい側の椅子に座っていたおじさんは、腕組みをして足を前に投げ出し、口をあんぐり開けてずっと眠りこけていたのですが、不思議なことにでこぼこ道にさしかかると、目を覚まして座り直し、椅子から落ちたりしないのです。
大きな荷物を抱えて後部の座席を占領していた農婦らしき女性たちも、乗客全員に聞かせるような南部なまりのキイキイ声で絶え間なく話し続けていましたが、揺れが始まると慌てて前の椅子を掴んで席から振り落とされまいとしていました。そして揺れが収まると、再び陽気な声で左右の客と語り笑うのでした。
こうして、向かい合った席が二列に並ぶバスの中は、でこぼこ道に入る度に、目を覚ました人も加わって、雑談と笑いの渦を巻き起こすのでした。
局営バスは、田舎に住む人たちにとっては憩いの場所であり、消息を伝え合う交流の場でもありました。料金も安く、その上、村に入れば、停留所以外の場所でも乗客が「停車して下さい!」とか「ここで降ろして頂戴」と言えば、どこでも降ろしてもらえるというのも魅力でした。