たまたまの出会い
私は小さい頃から、沢山の本を読みましたが、ある禅の本の中に、修行をしている禅宗のお坊さんの話が出て来ました。そのお坊さんは、ずいぶんと偉い人で、亡くなる少し前に自分の死期がいつかが分かったそうです。
それでそのお坊さんはどうしたかというと、まず、今まで自分がこの世の中でお世話になった人達を訪ねて行って、頭を下げて「お元気で」と言って、暇乞いをするんです。それから、前世の自分の墓の墓参りをして、それで往生したそうです。
それを読んだ時に、同じ人間に生まれて来た人の中にはこういう人もいるんだと感銘を受けて、私もせめて、死期は分からないまでも、こういう生き方をしたいと思いました。
その延長で、剣道の達人の山岡鉄舟の本や白井亨の伝記などを読みました。
山岡鉄舟は、浅利又七郎という強豪の幻影を振り払うために一生懸命稽古したといいます。 ある時、その幻影が消えて、再び立ち会うと、向かい合っただけで、相手は「参った」と言ったそうです。それで、山岡鉄舟は「見性悟道」(霊的覚醒)という悟りの道に進んだといいます。
白井亨というのは、あまりにもパワーがあって強いので、わざわざ自分の肩を木刀で打ち砕いて手を使えなくし、それで力に頼らない修行をして、ついには自分の剣から炎が出るようになったと言われています。対戦相手が白井亨と向かい合うと剣から炎が出ているように感じて、もう前に立っていられなかったそうです。
中学の頃から、そういう境地に達してみたいという気持ちがあって、それで空手の世界を選びました。
それと、どういう縁なのかは知りませんが、極真に入門する前の話ですが、アルジェリアに海外赴任した時に、私が入っていた寮に強盗が入り、ナイフを突きつけられたことがあります。ビューンとナイフを振り回されて、あの時はゾーッとしました、目の前で刃物をビュンビュンとやられたら、それをパッと避けて突くなんて出来ません。
何も出来なくて、そういう自分が情けないという気持ちがあって、それまでも空手は見よう見まねでやっていたのですが、本格的に習おうと極真空手をやり始めました。
意拳を習い始めた理由は、私は二十八歳になって初めて全日本選手権へデビューしたという、一般の感覚からすれば遅いデビューだったということがありました。当時は、今のように指導者が自分の得てきた指導システムなり、指導体系なりをきちんと作っている時代ではなくて、大山総裁が「極意は自分で掴みなさい」と言われて、生徒達に自由にやらせて下さった時代でした。
それで、実際に試合で闘って感じたのは、試合がこの一回で終わりだったらいいのですが、来年も出るし再来年も出るつもりでしたから、果たして二十歳や、二十一歳、二十二歳という伸び盛りの連中と闘った時に、自分はこのまま、同じ土俵で闘って若さに勝てるのかという切実な問題でした。それはもう、闘う以上は切実でした。
それで、どうしたらいいかと考えていた時に盧山先輩から、意拳(王A齋創始の形意拳の流れを汲む拳法)の話を聞いたんです。盧山先輩というのは、私達からすればもうメチャメチャに怖い先輩でした。 その先輩が意拳をやっているとかキックボクシングをやっていたという話は聞いていましたが、まあ、特別な人間なんだろうなという意識が最初はありました。
ある時、皆と雑談をしていると「意拳は歳には関係ないんだ。歳取ったって出来るんだ」という話を盧山先輩がするのを聞きました。しかし、他の先輩達は「歳を取ったら体が動くわけねえよ」と否定的でした。しかし、盧山先輩の「現実に、澤井健一先生は六十歳だけど体は動いてるぞ」という話を聞いて、そういうのがあるんだったら、私も是非やってみたいと考えて、先輩に頼みに行ったんです。
そうしたら、先輩は「ああいいよ。じゃあ、いついつ来いよ」と言ってくれて、それから先輩と近くの神社で意拳の稽古をするようになったんです。
間接的には、中学の時から誰に教えてもらうわけでもなく、呼吸法などをやっていたということがあります。それは、私が霊的なものが見えたりすることと関係があります。それで、実際に不思議な世界というものがあることを自分なりに感じていました。
私が意拳に出会ったのは、たまたまなのか、たまたまじゃないのか分かりませんが、そこに盧山初雄という人間がいたからであって、自分が意拳を探し求めたわけではありませんから、盧山先輩がいなかったら出会うことはなかったでしょうね。
極真もそうなんです。自分が探し求めていたわけじゃなくて、下宿の近くの道場に行ったらそこが極真会館だったわけです。ですから、意拳にしろ極真にしろどちらもほとんどたまたまなんです。近くに、例えば剛柔流の道場があったらそっちに行っていたかもしれません。