「生まれ変わり」を科学する まえがき

 筆者が眼鏡をかけはじめたのは、小学校4年生の時です。それまで馴染んでいたはずの世界は、わずか2枚の薄いガラスを隔てただけで一変しました。事物の輪郭の際立ち、鮮明な立体感、微細な動き。自分の目の前にありながら知覚されることのなかった世界への気づきは新鮮な驚きでした。
 成長とともに新たな知識を得、世界をこれまでとは違った視点から眺めるようになる度に、この印象的な体験のことを思い出しました。 
 また、知識という新たな眼鏡をかけることで世界が違って見えるだけでなく、その眼鏡が結ぶ像が歪んでいれば、それを通して見た世界も歪なものになってしまうことも知りました。
 ある眼鏡をかけている人にとってはこの上なく美しいものが、別の眼鏡をかけている人にとっては何でもないものに見え、また別の眼鏡をかけている人にとっては忌み嫌うべきものに見える。体験や学びを色濃く反映した眼鏡のおかげで、そんな見解の相違が生まれてしまっている。自らの目の前の眼鏡の存在に気づき、一度それを外して別の眼鏡をかけてみる。それぞれの眼鏡が見せてくれる世界を知り、その上でお気に入りの眼鏡を選ぶ。そんなことが自由にできたら、相互理解の進んだ、より調和の取れた世界が実現できるのではないか、そんなふうにも感じました。
 本書で読者の方にかけていただく眼鏡が提供する人間観・世界観は「人間の意識(または心、魂)は肉体の死を超えて存続し、また別の肉体に宿る」というものです。


 2021年の春、義父が旅立ちました。義父は年明けに体調を崩して入院し、その後徐々に病状が悪化していきました。長くは持たないかも知れない、そんな状況になった時、住み慣れた家で最期を迎えさせてやりたいとの家族みんなの思いで自宅での看取りを決めました。地域の医療従事者の方々に支えられながらの1週間、家族の一人一人が、義父との残された時間を、ゆっくりと過ごすことができました。筆者も、普段は恥ずかしくてとても口にできなかった感謝の言葉を様々な思い出話を織り交ぜながら、義父の魂に向かって語りかけ続けました。
 そして、気働きの人であった義父らしく家族全員が揃う時間帯に、孫も含めた家族が見守る中、息を引き取りました。家族それぞれが、義父の手を握り、身体に触れ、感謝の言葉を投げかけ、その命のエネルギーを感じながらの臨終の時でした。
 日本人にとって、かつては普通であった「自宅での幸せな看取り」を取り戻すべく懸命に活動していらっしゃる看取り士の柴田久美子さんは、看取りの場を「旅立つ人にとっては、愛する家族や友人に命のバトンをつなぐことができ、見送る人にとっては、魂のエネルギーを受け取ることができるという意味で、双方にとって喜びと幸せに満ちた尊い時間なのです」とおっしゃっていますが、義父の看取りは、この柴田さんの確信に満ちた言葉を実体験する場でもありました。


 ところで、今でこそ、人間の意識が死後も存続し、人が生まれ変わることに確信を持っている筆者ですが、若い頃は「唯物論者」で、生まれ変わりなど信じていませんでした。
 筆者は1963年、三重県の伊勢市に生まれ、両親と弟の4人家族という環境で育ちました。
 幼少期は、父親が買い与えてくれた多くの本や図鑑に囲まれ、生き物や自然・人体・宇宙の不思議などを解明し新たな知をもたらす「科学」に魅了された少年時代でした。
 後年、霊的現象を「科学的手法」を用いて分析することになるのは、この時期に触れた科学に関する書物の影響が大きいように思います。その意味で、父親には心から感謝しています。
 ただ、その父親が徹底した唯物論者でした。そのため、我が家では「魂」や「霊」といったものは、「非科学的」であると見做され、一切話題に上ることもなく、中学生の頃には、筆者自身も完全な「唯物論者」となっていました。
 その唯物論者ぶりは、今思い返しても恥ずかしく、実に情けない限りです。
 例えば、大学時代、「素晴らしいお坊さんと知り合いになった」と言う親友の強い勧めで、ある著名な僧侶の方と電話で話したのですが、話題が仏教で言う「輪廻転生」に及ぶと、強い反感が湧き、「そんな非科学的なこと、あるわけないじゃないですか!」と激しく否定してしまいました。
 また、大学で教鞭を執っていた時のこと。ゼミの学生H君の「愛って何ですか?」という質問に対し、「愛とは生物が子孫を残すために生体に仕組まれたメカニズム」と答えていました。
 唯物論的・生物論的な観点からのみの答に、H君が絶句していたのが瞼に焼き付いています。

 そんな筆者の転機は、今から20年以上前、妻の初めての出産に立ち会った時に訪れました。
 向こうの世界からやって来る崇高な命のエネルギーに圧倒され、それまで唯物論者であった筆者も、誕生の場が「この世」と「あの世」をつなぐ場であることを実感せざるを得ませんでした。
 長女の産声を聞いた瞬間、「人間は人知を超えた大いなる存在に護られ、生かされている!」と思わずにはいられませんでした。
 筆者のそんな思いをさらに強めたのは、次々と訪れた近しい人たちの「死」でした。
 誕生を待ちわびていた娘さんを死産で亡くした友人。相次いで亡くなった教え子たち。
 特に衝撃を受けたのは、先の著名な僧侶を紹介してくれた大切な親友の死でした。親友は奥様と幼い娘さん二人を残し、38歳という若さであの世に旅立ちました。「パパはお星さまになったのよ」と奥様が娘さんたちに語りかけると、上の娘さんが「パパ、お空で寒くないかな?」と心配しているという話を聞き、この娘さんたちに対して、単なる慰めではなく、心の底から「パパはいつでも空から見守ってくれているよ」と伝えることができたなら、どんなに有意義なことだろうか、との思いを強くしました。


 このような出来事を通して「生まれ変わり」や「死後の生命」に心惹かれた筆者は、専門である言語学で「異言」の研究に情熱を注ぎ、その後、縁あって生まれ変わり研究の世界的拠点であるアメリカのバージニア大学医学部知覚研究所の客員教授として研究を重ねました。
 さらに、拙著『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』で記したような様々な体験を積み、過去生(いわゆる前世)を語る子どもを中心とした多くの方々と接し、原因不明の恐怖症を持つ筆者の次女が過去生記憶を語るに及んで、「この世」と「あの世」のつながりは実体験として、また本書で紹介するような事実を通して、当たり前のものになっていました。
 そんな筆者にとっても義父の看取りは、魂が到来し、また帰還する場としての「あの世」の存在を改めて実感させる出来事でした。
 家族の一員として、肉体を持った状態の義父と接することができなくなったことは大きな悲しみですが、義父から受け取った命のバトンを次に手渡す時まで汚すことなく磨き続けていかなければならない、と気持ちを引き締める出来事でもありました。
 また、筆者が義父の他界後に抱いた想いの一つは、

「今度生まれ変わった時は、どこで会えますかね?」

 でした。
 筆者の想いは、身内の死に直面した多くの方の持つ想いとは異なっているかも知れません。
 しかし、それは個人的な体験だけでなく、本書で紹介するような事実や科学的考察に裏付けられた想いでもあります。
 「肉体の死が命の終わりだ」とお考えの方は、一度その眼鏡を外して虚心坦懐に本書で展開される世界を覗きみていただけたら、と思います。既にそのような世界観をお持ちの方にとっても、本書が提供する眼鏡が、これまで以上に細部や全体像を明確にお見せできるのではないか、と思います。それぞれのお立場から、本書をお楽しみいただけましたら幸いです。

 令和三年九月  大門正幸

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