コラム1 内台一体だった日本教育
日本の台湾統治の特色の一つとして、教育に非常に力を入れたことが上げられる。
台湾には、日本の寺子屋に相当する書房という教育機関があったが、台湾総督府は書房を強制的に禁止しなかった。しかし、科挙合格を最終目的としていた書房教育は、日露戦争後、科挙の廃止などに現されるような社会の大きな変化によって、存在意義を失ってしまった。そして、書房にとって代わったのが、日本の国民教育であった。
台湾統治直後に総督府初代学務部長・伊沢修二が始めた芝山厳学堂の国語伝習所を皮切りに、公学校、蕃人(原住民)公学校、幼稚園、小学校、中学校、高等中学校、高等女学校、各種専門学校、盲唖学校などが怒濤の勢いで設立されていった。明治三十二(一八九九)年には、台湾総督府医学校と台北、台中、台南の各地に師範学校が作られ、各界の指導者を多く輩出。昭和三(一九二八)年には、台北帝国大学が創設された。これは大阪帝国大学(昭和六年創設)、名古屋帝国大学(同十四年創設)よりも早かった。
台湾での教育が内台一如の考えに基づきいかに良心的であったかは、欧米諸国の植民地での教育と比較すると、はっきりと読み取ることが出来る。
オランダに四百年間も統治されていたインドネシアでは、独立直後の就学率が僅かに三%、イギリス統治下のインドでは、一九二一年時点の識字率が、たったの八・二%であった。これに対し日本統治下の台湾では、統治三十年で台湾人の初等学校就学率が三〇%に達した。さらに終戦前年には七一%(原住民は八三%)に達し、アジアでは日本内地に次いで高い就学率であった。
日本教育が浸透するにつれて、多種多様な言語が使われていた台湾で日本語が共通語としての役割も果たした。九種族にも分かれている原住民(高砂族)、泉州系・※州系・客家系に分かれる漢民族は、それぞれ言語が異なり、互いに意志の疎通もままならなかった。彼らに一様に日本語教育が成されたことで、人々は意志の疎通が可能になり、流通も活発化していった。さらに、漢語では不可能であった近代科学の理解も日本語により可能になり、台湾の近代化に大いに貢献したのである。