庇ってくれた内地人の隣人
そんな時代でも、思いやりのある、差別のない日本人ももちろんいました。
私の家は割合に規則を守っていて、闇物資を買いませんでしたから、戦争が始まって一番困ったのは、食べ物でした。お米も困ったし、肉でも何でも困りました。米に芋やかぼちゃを一緒に入れて炊いたりして、空腹をしのいだものです。大東亜戦争が始まるまでは、台湾は物資は豊富でしたから、あまり困ることはありませんでした。
当時、私の家の隣に住んでおられたのが、大学に勤める佐藤教授の一家でした。大変良い先生で、奥さんもとても良い人でしたから、親しく付き合っていました。
その当時は、父が、香港電力に転勤になり、家族のほとんどが香港に行っていました。開戦直後、日本が香港を占領したため、父は香港電力の営業課長として香港に転勤になったのです。そして、占領中の三年間ずっと香港にいました。ですから、台湾の家に残っていたのは、私と、妹一人、弟一人と、外祖母(私の母の母)でした。
ですから、よけいに私達一家を気遣ってくれて、いつも、闇物資を塀越しにポンと投げ入れてくれたのです。これは本当に有難かったです。私達をとても可愛がってくれました。
佐藤さんは、隣組でもよく庇ってくれました。ご近所は皆、日本内地人で、私の一家だけ台湾人で異分子でしたから、陰では色々と言う人もありました。しかし、佐藤さんは、「秋元さんのところは、いい人だよ」と皆に言ってくれたり、隣組の会議の時でも色々と取り計らってくれました。感謝しています。私が海軍に入隊した時には、闇で買った米に小豆を入れて赤飯を炊いて、見送ってくれました。あの味は、忘れられません。
終戦後、佐藤さん一家が引き揚げた時は、涙で見送りました。