建設会社に就職
前述したように、昭和十七(一九四二)年、私は台北工業学校を三カ月早く卒業しました。その頃にはもう情勢は緊迫していました。
当時は、卒業生に向けて、どこどこでこういう人材が必要だと、国が募集するのです。学生が少ない時でしたから、学生達は、その中から行きたいところを選ぶのです。
私は長男ですから、元々父の仕事を継ぐつもりでいたのですが、いつからか、私には土木はやはり向かないと思うようになりました。それで、考えた末、私は西松組(後の西松建設)という日本の建設会社に準社員として入社することにしました。ここで私が最初に従事したのは、朝鮮(現在の北朝鮮)にあった会社の系列で、台湾日本ソーダという会社の工場建設です。私の仕事は、測量でした。私が兵隊に行った後には、そこはダイナマイトや手榴弾などの工場になりました。
兵隊にとられるまで、ここで一年三カ月働きましたが、同じ仕事をしていても、ややはり日本人は外地手当として二、三割余計に給料がもらえることが癪にさわりました。これは長年の台湾統治の習慣でした。納得がいきませんでしたが、結局は諦めざるを得ないことだったのです。