公学校へ上がって
子供の頃から、ある程度は日本語に親しんでいましたが、本格的に日本人としての教育が始まったのは、公学校に入ってからです。数え年八歳の時でした。二年生の始めまで、私は嘉義の玉川公学校という所にいました。うちの親父もここの卒業生です。今は、進学国民学校という学校に変わっています。
公学校も小学校と同じ、六年教育です。先生は内地から来た人もいるし、台湾の師範学校を出た人もいました。もちろん授業は全部日本語です。
一年生では、まず「ハナ ハト マメ マス ミノ カサ カラカサ・・・」と、そういうところから日本語の勉強が始まりました。そして私達の場合は、覚える時に、「ハナ・フゥエ ハタ・キィヤ」と、それぞれの日本語に対応した台湾語が、次に入りました。花は台湾語でフゥエ、旗はキィヤです。そうやって台湾語も一緒に覚えたのです。日本語以外は禁止されていたなんて思っている人もいるようですが、そんなことはありませんでした。
一年生の担任だった義先生は台湾人で、台湾語をよく知っていましたから、日本語と台湾語を同時に教えたいと思ったんでしょうね。子供達は、先生の後について、リズムをつけて、「ハナ・フゥエ ハタ・キィヤ」というふうに口ずさむんです。子供は覚えるのが早いから、あっという間に覚えてしまいました。