日本時代は台湾の礎
欧米の国がアジアを植民地として支配していた時代がありました。台湾でも、オランダとスペインがそれぞれ南部と北部に拠点を築き、一六四二年にはオランダが台湾を占領しました。それに抵抗して一六六一年には鄭成功がオランダを追い出して台南に「承天府」を置きましたが長くは続かず、今度は一六八四年に清朝が「台南府城」を置きました。
そして明治二十七(一八九四)年の日清戦争で清朝が負け、その賠償として台湾は翌明治二十八(一八九五)年に日本の領土となりました。そこから、昭和二十(一九四五)年、大東亜戦争で日本が降伏するまで、ちょうど五十年間、台湾は日本の統治下にあったのです。その五十年間、台湾は日本だったのです。
私は、日本時代の大正十四(一九二五)年に、台湾南部、北回帰線のすぐ北にある嘉義街(現在の嘉義県嘉義市)で生まれました。日本領台三十年後の頃ですから台湾全土の治安も教育も良くなり、インフラ等の設備もだいぶ進んだ頃です。
元々、台湾という所は都市計画がなく、下水道、上水道がなく区画整理もありませんでした。
私が生まれた当時の嘉義は、まだ田舎の集落といった感じで、便所といったら汲み取りで、家の中に便所の桶があるだけでした。便所の無い家庭も多かったのです。下水には蓋がしてありませんから、子供達は下水の溝を跨いで用を足すのです。どやされましたけれどね。水道の蛇口は家に一カ所しかないので、そこから担いでいって使うという生活でした。水道がある家はいい方で、地域に共有栓が一本だけあって、皆がそこから水を汲んで担いで持って帰るところも多かったのです。私の小さい時は、そういう時代でした。それから、だんだん施政も良くなって、上水道、下水道が完備されるようになりました。
また、当時は道は細い路地ばかりで舗装されていませんでしたし、大きな幹線道路もありませんでした。町並みは、明治三十九(一九〇六)年の大地震を機に都市計画が作られ、徐々に道幅八メートルの碁盤の目に整備されていきました。私の成長と足並みを揃えるようにして町がどんどんと大きくなり、それに伴って、治安も町並みも、衛生も、年々良くなっていきました。
日本が来る前に台湾を統治していた清は、台湾を「化外の地」として、ほとんど整備をせずにいました。そのために、土匪が横行し、治安はひどく悪かったそうです。土匪というのは日本のヤクザみたいなものです。裕福な家の人間を、大人、子供構わず誘拐してお金を要求するのです。
清の時代は、台南や台北なども人口二、三百人ぐらいの部落が点在している程度の町に過ぎず、嘉義もその一つでした。各部落は土匪から村を守るために、部落全体を竹藪で囲んでいました。部落に入る道といえば、やっと牛車が通れる程度の細い通路だけというような状態です。竹藪は密集しているし、棘が多いので、土匪が侵入しにくいということだったようです。銃弾も通り抜けないほど、竹藪が繁っていたと言います。ですから蚊が多く、多くの人がマラリアでやられてしまうのです。
山の人(原住民の高砂族)達は山の人達で、部落間の争いがあって、首狩りなんかも風俗としてまだありました。
日本時代になって、土匪征伐と同時に、このような竹藪を切り払って町を整備したり、教育を施したりしていったのです。