はじめに
- 全てを捨てて新たな自分を発見せよ(ラビ・ローズ談)
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あなたはどのくらいユダヤ教というものを知っているでしょうか。ユダヤ教には様々な側面があります。それ故に、「ユダヤ教とは何か」という質問に答えるのは大変に難しい作業です。そして、どのラビもこの問に対して、少しずつ違う答をするでしょう。
ユダヤ人はよく質問を以って質問に答えることをします。そこで私も、「ユダヤ教とは何か」という質問をされたならば、それがどんな意図で発しているのかを聞き返したいと思います。何故なら、ユダヤ教というのは宗教であり、文化であり、人々であり、考えであり、全てだからです。
それは、ダイヤモンドをいろいろな角度から見るようなものです。いろいろな要素が集まってユダヤ教を作っています。どの位置から見てもダイヤモンドの一面しか見られないように、また、ダイヤモンドに映る光が違って見えるように、その質問がどういう意図を持ったものかによって答え方は違って来ます。
しかし、私の仕事のラビというものは、宗教について、魂について教えを説く教師です。ですから、ここでは宗教という面に絞ってその質問にお答えしていきましょう。
ユダヤ教は大体三千五百年から五千年続く宗教であり、アブラハムから始まります。
アブラハムは、『トーラー(モーセ五書)』(第二章「ユダヤ人の行動を根本で律する『聖書』」参照)によると、最初に唯一全能の神という考えを発見した人物です。
アブラハムは、全てを捨てるように神から告げられました。「レハレハ」(=断じて行け)、と。父の土地を捨て、豊かな生活を捨て、全てを捨てて新しい土地に行き、もう一度始めなさい、と。新しい生活を同じ場所で始めるのではなく、自分の場所を離れて、もう一度新たに全てを始めなければいけないのです。
このことは、ユダヤ人にとって大変に重要な意味を持ちます。全ての人は、ユダヤ人だけではなく、皆いずれ自分自身を全く一八〇度変えなければいけない時が来るからです。
全く違う場所で、全く新しい人になる。新しい身分で、新しい現実の中、新しい精神で。それは、自分が本当にそうなりたいと思う人になるためです。
聖書(ヘブライ聖書、『旧約聖書』)のある注釈者によれば、このレハレハ、即ち「自分の土地を離れて別の場所に行きなさい」という神の命令は、物理的に、実際に別の場所に行くということではなく、精神的な意味であるのだそうです。自分自身の内面に深く行って、新たな土地、全く知らなかった自分を見つけるということなのです(ユダヤ教において聖書という場合、それはヘブライ聖書、いわゆる『旧約聖書』のことを指す)。
もし、あなたがそういう体験をしたならば、肉体的に同じ場所にいたとしても、そこは全く違う世界、全く違う局面になるのです。瞑想はその場所に連れていってくれます。
ユダヤ教というのは革命的な宗教です。革命的というのは、「新たな場所に移って再び始める」ということだけを言うのではなく、「毎日、自分自身の中に進んで行き、新たに始めなさい」と説いていることでもあるのです。毎日が、自分自身の中に魂を、生きる意味を、神を探し求める旅です。これが真のユダヤ教なのです。
- あらゆるものの内に見えるもの
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ユダヤ人はイスラエルとも呼ばれます。イスラエルというのは「神や人と格闘し打ち勝つことが出来る人」という意味です。ユダヤ教という革命的な宗教は、常に探求し続け、さらに常に格闘し続けているのです。
神と格闘する、神という考えと格闘する。つまり、神とは一体何なのか、どうしたら神を見出すことが出来るのか、どうしたら神を感じることが出来るのか。どうしたら不実である時に善を感じることが出来るか、自分に課せられている義務をどう理解したらいいのか、奉仕とは、慈善とは、善意とは、愛とは、・・・・。
それだけではありません。全ての人は神の現れです。全ての人の内には一かけらの神御自身があるのです。ですから、あらゆる人の中に神を見出すために格闘しなければいけません。これがユダヤ人の為すべきことです。目の前にある本や机の内にも、ユダヤという眼鏡を通してみれば神が見えるのです。
これは難しい生き方です。ある人は何故そんなことをするのだと言います。楽ではありません。この生き方をするために、私達にはいろいろな規則があります。ある食物を避けたり、ある行為を禁止しています。全てのことには決められたやり方があります。
家で何か飲み物を飲む前には祝祷を唱え、お祈りをします。それは、これが神から頂いた物であること、この中には魂のエネルギーがあることを思い出すためです。それを飲むことによって、それは体の栄養となり、私はエネルギーに満ちて神の仕事をするのです。
ユダヤ人には性行為を行う時にすら規則があります。それは何故かというと、決してがっちりとした枠の中に留まるためではなく、行為に規律を与えて特別なことにすることで、それは、ただの動物的な行為ではなく、神聖な、霊的な行為となるのです。
私は高校時代に腕の骨を折りました。腕が折れたまま生活するというのは辛いことです。また、足が折れたり、胃腸が悪かったり、目や耳が悪かったりするというのは大変辛いことです。何かがうまくいかない時に、我々はどれほど恵まれているか、神が私達の生活の一部であることを知るのです。
私達は、全てのものを昇華します。ユダヤ教とは昇華の宗教なのです。ただし、このことを全ての人が知っているわけではありません。
キリスト教徒が教会に行くように、イスラム教徒がモスクに行くように、ユダヤ教といえばシナゴーグ(ユダヤ教礼拝施設)に行くことだと思っています。そうではありません。ユダヤ教というのは革命であり、意識であり、自覚であり、繊細さであり、規律やミツボット(神の戒律、単数形はミツバ)を通して「向こう側」に行く宗教なのです。
ミツボットには「参加する」という意味もあります。ヘブライ語の「ツェベット」という言葉は「スタッフ(部員、職員)」という意味ですが、「ミツバ」にはこれと同じ響きがあります。ミツボット(戒律)に従うということは、神の仕事を行う人々のグループに参加し、自分を神に結びつけるということです。神の「スタッフ」になるということです。
戒律に従うとは、神の民、またその考えに参加するということであり、最も重要なのは、自分を神に結びつけるということなのです。
- 特別な民、ユダヤ人の特別な仕事
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ユダヤ人は自分達のことを特別な人々だと言うことがあります。「選ばれた人々」ということを聞いたことがあると思います。これは大変難しい言葉です。「選ばれた」という言葉は他の人の上に立つ、他の人より優れたということを意味します。これは、ユダヤ人を非常に間違って伝えています。
ユダヤ人は聖書の中で神から「アンセグラ」と呼ばれています。「大切にされた、宝の民」ということです。あなたに子供がいるとしましょう。子供は宝です。二人子供がいれば、二人とも宝です。
つまり、これはユダヤ教が他の宗教より優れているということなのではありません。ユダヤ教はユダヤ人にとって一番優れた宗教だということです。キリスト教徒にとって一番の宗教はキリスト教であり、イスラム教徒にとって一番の宗教はイスラム教です。あなたにとって一番の宗教とは、あなたが真剣になる宗教なのです。
私達は他の人より優れていると思っているのではなく、私達は特別だと思っています。というのは、私達には仕事があるからです。 特別な仕事です。それは、革命という考えに行き当たることであり、上へと向かうことです。それはつまり内に深く向かうことです。深く、深くを見つめ、神とのつながりを見ることです。常に格闘し、意識するのです。
私達は、この過程の中で、頭脳と魂を磨いたのです。ユダヤ人の偉大な科学者や芸術家を思い浮かべてごらんなさい。経済や金融や、あらゆる領域で力を発揮したユダヤ人を思い浮かべてごらんなさい。ユダヤ人は自分達を深く考えるよう、深く感じるように、深く味わうようにと訓練して来たのです。
悲しいことに、多くのユダヤ人がこのことを忘れてしまっています。多くのユダヤ人が、自分達には特別な仕事があることを忘れてしまっています。単に、社会の一部になろうとし、他の人達と同じになろうとし、違ったように見られたくないと思っています。
これは悲しいことです、少なくとも私にとっては。全ての人が特別であるべきです。集団の枠の中で個性は大切なことです。私達は同じ目的を持っていますが、一人一人は違う表現の仕方を持っています。
降り積もる雪は無数の結晶の集まりですが、どの結晶も全く同じではありません。そして、雪の結晶は互いに不和を起こすことなく降り積もっていきます。ユダヤ人は自分達のグループの中で、また世界の他の人々との関係で、これと同じようにある種のバランスの中で共存したいと考えています。その中で私達のメッセージを伝えたいと思っています。
- 自らの井戸を掘りそこに魂を見出せ
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しかし、私達は伝道師ではありません。これは大変重要なところです。ユダヤ人は伝道を全くしません。ある人が私のところに来てユダヤ教徒になりたいと言ったとしましょう、実際何度もあったことです。その時、ラビがまず最初に為すべきことは、ユダヤ教徒になることがいかに大変か説き、思い止まらせようとすることです。「どんなに難しいことか知っていますか? 何故ユダヤ教徒になりたいのですか? やらなければいけないことが沢山あるのですよ。ユダヤ教徒にならなくても素晴らしい、正しい人になれますよ」と。
善いラビならこう言います。「あなたはどんな宗教で育って来たのですか。キリスト教徒だったなら、キリスト教をもっと追求したらどうですか。仏教徒だったら仏教をもっと追求したらどうですか」と。
私が尊敬する人の一人にダライ・ラマがいます。彼はやって来る人に「自分の井戸を掘りなさい」と言うからです。つまり、自分に伝えられて来たことに戻って、そこに魂を見出しなさいということです。
賢者とは、自分の権力や自分の組織の利益、自分の流儀のことよりも、宇宙の調和やバランスを考える人を言います。人々がそれぞれ自分の属している宗教の中で、自分達のやり方で、自分達のことを情熱を持って語る時に宇宙のバランスが取れるのだと思います。
さて、ユダヤ教とは私が今までお話ししたこと全てなのですが、大事なことは、この運動であり、革命、意識です。それはものの見方です。ユダヤの眼鏡を通してみれば、全てのものの中に聖なるものが見えるのです。
- ユダヤ教の中にある様々な考え方
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ユダヤ教には基本的に四派、あるいは五派の宗派があります。
正統派(オーソドックス)はユダヤの律法を最も厳密に守って生活する人達です。また、保守派(コンサーバティブ)も律法は固く信じているが、他方で現代においては現代の解釈が必要だということも分かっている人達です。一方、改革派(リフォーム)は、律法に意味があるのならばそれを行えばよい、それは個人の選択だと考える人達です。
ところで、再建主義者(リコンストラクショニスト)にとってユダヤ教というのは、もっと発展していく宗教文明です。世代世代でユダヤ教は発展していき、その世代その世代がユダヤ教をどう変えるかを決めていきます。再建主義者の運動はユダヤ教を急進的に変えていこうとします。改革派もそうですが、再建主義者はさらに自由主義的な運動で、今のユダヤ教は大昔のユダヤ教とかなり違って見えてもいいと考えます。
しかし、これはあらゆる運動について言えると思います。例えば、日本の今の仏教は、五十年、百年前のものとは当然違ったものがあるでしょう。
もう一つ、特にイスラエルの中に、世俗的ユダヤ人というのがいます。世俗的というのは、宗教ではないユダヤ教ということです。それは祖国イスラエルとか、国民、ヘブライ語、文化、祖先といった非常に国家的、文化的な意識で、必ずしも宗教的なものではありません。
現在、世俗的ユダヤ人はかなりの人数がいますが、今後は少なくなっていくと思います。特に、新しい千年紀に入り、人々は魂とは何かと問い、探し求めています。彼らが自分達を世俗的と呼んでも、ユダヤ教の魂の側面を見るようになるでしょう。彼らがどんなふうに実践していくかは分かりませんが、自分の井戸を掘って、人生にもっと意味を与えてくれる何かを探すでしょう。
例えば、日本人は日本の国土を神聖なものだと考えていると本で読みました。それは 国土というのは物ですが、その中に何か特別なものがあるからです。世俗的ユダヤ人が「私はイスラエルの国を愛しています」と言うのは、日本人の国土に対する思いに似ていると思います。
確かに、これは宗教的な思いではありません、しかし、やはりこれも宗教的な思いなのです。彼らは気がつかないか、そう言われるのを恐れているのです。宗教なんておかしな人がやることだと思っているのです。「言葉」とか「国土」、そういった考え、感覚は魂に強く関わっていて、ついには私達の根源へ、つまり神へ戻っていきます。
さらに、ユダヤ民族にはアシュケナジーとスファラディーがあります。もともとのユダヤ人はスファラディーだとする説があります。それは興味深い話ですが、あまり根拠のある話ではありません。私はたまたまアシュケナジー系ですが、どちらにも共鳴するものがあり、教師としては同じように扱っています。
私達ユダヤ人は皆もともとイスラエルにいましたが、ディアスポラといって世界の各地に離散してしまいました。そして、東欧に行った似たような人達がアシュケナジーとなったということではないでしょうか。私はどちらも正統的なもともとのユダヤ人だと思っています。片方がある正統的な部分を持ち続け、もう片方は別の正統的な部分を持ち続けて来たということだと思います。
このように、いろいろな考えを持った人達がいます。日本にいるラビにとっての大きな課題の一つは、こういったいろいろな考えを持つ全ての人のラビ(教師)になることです。そして、さらに、あらゆる人のラビになることです。日本人の、米国人の、ヨーロッパ人の、アフリカ人の、あらゆる肌の色の人のラビになることです。しかし、それは大変難しいことです。というのは、それぞれ皆、その文化の習慣を持ち込もうとするからです。ですから、ラビはいろいろな風習を取り入れていなければならず、それは、まるでいろいろな具の入ったシチューを作るようなものです。
日本に来るラビで、あまり長く留まらない人が何人かいますが、それは習慣の違いのためです。日本では皆物静かです。一方、ユダヤ人はよくしゃべり、自分の考えを強く主張し議論に多くの時間を費やします。一人での瞑想や祈りや勉強の時間はあまりありません。
討論はユダヤ教にとって大切な部分です。それは神についての討論です。ただ争うだけの討論ではありません。神は私達に何をお望みなのかを考えるのです。グループによってその考え方は違います。だから大いに討論するのです。
ユダヤ教の学校のイェシバでも沢山の討論が行われます(イェシバは、もとはパレスチナやバビロニアの『タルムード』の学院をそう呼んだが、後に各地のユダヤ人社会における『タルムード』を学習する施設を指すようになった。『タルムード』については第三章「ユダヤ人が神聖視するもの『タルムード』」参照)。
イェシバから伝統的なユダヤ教の教育が始まりました。そこでユダヤ人は知性(mind)を発達させました。知性というものは、心(heart)にも関連します。というのは、心だけから感情(emotion)が生まれるのではないからです。
先にお話ししましたように、ユダヤ教にはいろいろなグループがあります。私達はそれを家族だと考えます。日本に当てはまるかどうか分かりませんが、私の住む米国人が一番喧嘩したり、議論をする相手は家族です。何故かというと、家族が一番安心するからです。自分のことをずっと知っているからです。ですから、私達は家族に議論を挑んだり、討論をしたりしているのです。