ユダヤ人の責任とキリスト教徒の無責任
人が人を殺すには、その相手のことを人ではなく、物のように考えなければ出来ないと私は思います。
少なくとも、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教においては、また、他の宗教においてもそうだと私は信じますが、人間を特別な存在であると教え、聖なるもので守るべきものであり、出来る限り増やし発展させていくものであると教えてきました。
その中で育ってきた人が、他の人に対して、物のような扱いが出来るのは、その人のことを人間だと思っていないからです。
そして、キャロルが指摘していますが、キリスト教の教えの中には古代の状況についての誤解があり、それがユダヤ人を人間以下の存在であると思わせたということです。
それだけでなく、キリスト教徒は、彼らが言うところの二千年前のユダヤ人の過ちの責任を、今日のユダヤ人にまで負わせようとしているのです。それはまるで「山本さん、あなたは素晴らしい人のようだが、あなたの曾々々々々々お祖父さんは罪を犯しているから、あなたはその償いをしなければならない」と言うようなもので、全く話になりません。
もし、私達ユダヤ人がキリスト教徒に向かって「今日のキリスト教徒はナチスの時代に起こったことについての責任がある」と言ったならば、彼らは「それはとんでもない話だ。そのころは、私はまだ生まれてもいなかった。どうして昔の人がやったことの責任が私にあるのか」と言うでしょう。
しかしキリスト教というのは、その一方で「今日のユダヤ人は、キリストのはりつけについて、かつてのユダヤ人と同様の責任がある」と言うことに何の疑問も感じないのです。
但し、教会はこのような考え方を変え始めています。ですが、そのためには、ホロコーストのような劇的な出来事が必要でした。